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めざそう未来の科学者!SSリーグ 筑波大学 次世代科学者育成プログラム 

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科学者への道

第六回 大木 理恵子先生


国立がんセンター研究所
細胞増殖因子研究部
専門 「細胞生物学・分子生物学」

大木 理恵子 博士

文部科学省 がん研究分野の特性等を踏まえた支援活動HP 
http://ganshien.umin.jp/public/research/spotlight/ooki/index.html
■子どもの時はどんな子どもでしたか?
 私は3人姉妹の長女で、子どもの頃は、妹たちと無我夢中で遊んでました。庭の実を拾い集めてクッキングとか、釣りをして取った魚を飼ったりとか。ちょっと大きくなってからは実際に料理とか、裁縫とか手芸とか、何かを作り出すことが好きでしたね。父親は白血病の研究者、母親は大腸菌の研究者で、忙しかったこともあって、両親には余り細かく面倒を見てもらった覚えはないです。
 小1の秋に父の仕事の関係でアメリカに行くことになり、現地の小学校に突然入ることになりました。全く英語が話せず、大変な劣等生でした。アメリカの小学校の授業は、日本と大きく違っていて、生徒20人くらいに先生が一人いて、公文の教室のように、それぞれが問題集をそれぞれの速さで解いて行く、という形式でした。それだと自分ができれば、どんどん先に進めるので、おもしろくて一所懸命やってました。その結果、1年10ヶ月後に帰国する前には、算数ではクラスでトップになってましたし、成績優秀者のみ入れる選抜クラスへ選出されるまでになってました。
 でも、小3の途中で日本に帰ると漢字は全く書けず、九九も覚えていなかったので、またもや劣等生。テストで100点満点中4点を取った経験もあります。
 中学は従姉妹たちが私立に行っていたこともあって、私立中学を受験しました。多分ぎりぎりで受かったんだと思います。実際に中学の最初の頃は成績が悪かったです。ただ、中学3年生のころから学校の勉強が簡単に思えるようになりました。
 私は、自分の能力でぎりぎりのところに入って、そこで周りに追い付こうとがんばって、同じレベルになるということが多いんです。最初は周りはすごい、自分は劣等生だと思うんですね。甘い状況ではすぐにさぼりますが(笑)、厳しい状況だと、自然と頑張る性質のようです、私は。
 中高では演劇をやったり、バンドを組んだりしてました。絵を描くのも好きで、油絵から漫画までいろんな絵を描いてました。中高生の頃、大好きだったのはジャン・コクトー。彼の詩、絵画、映画などがともかく大好きで、高校をさぼって映画を見に行ったりもしてました。

■理系に行ったのはなぜ?
 高校時代までは、将来なりたいものは特になかったのですが「自分にしかできないことをしたい」とは思ってました。
 大学受験の時には、特に理系に行きたかったわけでもなく、実際に文系学部と理系学部を受験しました。受かったのが理系だったので理系に行きました。
 早稲田大学教養学部生物学専修に行って、最初の3年間は勉強はほとんどせず、音楽系のサークル活動などに熱中してました。出版社に就職し、編集者になって、ジャン・コクトーの記事を書きたいと思ってたんですけど、実際に出版社に勤めたからって自分がその編集部に行けるかどうかは分からないということに気がつきました(笑)。研究者は自分で選んだことが主体的にできるのではないかと思い、研究者の道も考え始めてはいました。
 3年生から4年生になる春休みに「細胞の分子生物学」の第二版がでて、割引で買えるということで買いました。これが衝撃的に面白くて人生が変わりました。細胞内の現象は一つの分子からすべて論理的に説明できるということに感動したんです。すごい勢いで読み進め、読了した時には、「大学院に行って分子生物学の勉強をしたい」と思って、8月に分子生物学を研究できる東京大学を受験しました。
 それまでちゃんと生物学の勉強をしていなかったので、大学院受験までの間は猛勉強しました。「細胞の分子生物学」は1500ページくらいあるんですけど、あの本をほぼ全部暗記するくらい読み込みましたし、有機化学や無機化学についてもかなり勉強しました。ほとんど缶詰め状態で勉強した甲斐あって、他の学生に追い付き、大学院にも合格しました。その時の知識が今でも役立っています。

■大学院時代
 私は大学時代にはさぼってほとんど実験をしなかったんですけど、他の同期生はかなり実験をしていたようで、電気泳動を使った実験など基本的な実験が既に普通にできていました。 またもや「劣等生」だったんですね。でも精いっぱい努力して、修士2年の頃には研究のやり方がわかるようになりました。大学院では、がん組織で変化を起こしている遺伝子のクローニングを行っていました。
 研究者の中には「考えるのは好きだけど実際に手を動かして実験をするのはあまり好きじゃない」という人もいますが、私は手を動かすことが昔から好きでしたし、単純作業もやるって決めてしまえば、一日中ずっとやっていることができます。
 博士課程が終わる頃には、DNAに関する実験については他の人に負けないくらいになっていて、研究者として生きていこうと決意しました。そこで、博士課程終了後には、世界に通用する研究者になりたいと思い、毎年のようにNature等の一流科学雑誌に論文を出している研究室に移りました。その研究室に在籍中に、分子生物学に必要なほとんどの実験手法を学び取りました。そこで、今も研究を続けているがん抑制遺伝子p53に関する研究を始めました。

■研究について
 大学院時代からずっとがんの研究をしています。正常細胞は寿命がありますが、がん細胞は無限に増殖し続けます。そして他の細胞にも浸潤(食い込む)していき、栄養分を奪っていくのです。
 私はセミナーなどでよく「がん細胞を研究するということは正常細胞を研究することだ」と言います。がん細胞が異常になってしまった原因を調べていくと、「こう異常になったからがん細胞になってしまったわけで、正常細胞では本来こうなんだ」ということがわかるんですね。
 日本では、今後急速に少子高齢化社会が進んでいきます。現在でも日本人の約1/3ががんにより死亡しているのですが、がんの発生率は年齢が上がるに従い高くなるため、高齢化が進むとがん患者も増大し、がん治療は大きな社会問題となると予測できます。そのため、副作用が少なく、治療効果の高いがん治療薬の開発がとても重要なのです。

■どうしてがんになるのでしょう?
 ヒトの細胞の中には、正常な細胞をがん細胞に変化させる「がん遺伝子Akt」と、がん遺伝子のはたらきを抑制するなどして、がん細胞ができるのを防ぐ「がん抑制遺伝子p53」があります。 紫外線を浴びたり、煙草を吸ったりなどの刺激があると、正常細胞の中でがん遺伝子Aktが活性化します。でも、がん抑制遺伝子p53がはたらいて、がん細胞になるのを防いでいるのです。p53がどのように働いているのかを解明するため、多くの遺伝子について調べ、p53のはたらきが活性化すると、PHLDA3という遺伝子も活性化することをつきとめました。
■PHLDA3ってなに?
 PHLDA3遺伝子はPHLDA3タンパク質を作り出します。がん遺伝子Aktは細胞膜に結合し、細胞をガン化します。PHLDA3タンパク質はとても細胞膜に結合しやすいという性質があります。そのためPHLDA3タンパク質があるとAktが細胞膜に結合することができず、細胞のがん化が阻害されることになります。
 実際にPHLDA3が働かないようにした細胞ではAktが異常に活性化し、細胞ががん化していることもわかりました。さらに、ヒト肺がんにおいては、PHLDA3遺伝子が欠損している割合が高いこともわかりました。

■分子標的抗癌剤って?
 従来の抗癌剤は、正常細胞も攻撃してしまうので副作用が強いのです。そこで、現在、副作用の少ないがん治療薬として脚光を浴びているのが「分子標的抗癌剤」です。分子標的抗癌剤は、がん細胞に関わる分子のみを標的とするため、正常細胞には影響を与えず、副作用は少ないのです。現在使われている分子標的抗癌剤のイレッサやハーセプチンは、治療効果が高く、これまでの抗癌剤で見られたような副作用が少ないことが臨床的に明らかになってます。
 私たちの行っているPHLDA3の研究も、新しい分子標的抗癌剤の開発につながるはずだと信じています。

←これは癌への進行が抑えられている細胞です。赤い部分はPHLDA3がある部分です。緑の部分はがん遺伝子Aktがある部分を表します。
PHLDA3が細胞膜部分にあってAktが細胞膜に結合するのを妨げています。

←こちらはPHLDA3の代わりに癌を抑える効果のないタンパク質が入った細胞です。
赤い部分は癌を抑える効果のないタンパク質、緑の部分はAktの部分です。
Aktが細胞膜と結合した結果、癌化が進行してしまいました。
■BSリーグ生へのメッセージ
 何でもいいから自分が好きな事に一所懸命打ち込んでみる事、です。大学生になるまで、一度もそう言う経験をした事がない人は、何にも一所懸命になれない人になってしまっている気がします。若いうちに、思い切り何かに打ち込んでほしいです。

科学者への道

科学者は子供のころどんな子供だったの?なにがきっかけで科学者になったの?科学者になるまでの道のりを先生たちに聞いてみましょう!

第九回 濱 健夫先生
第八回 井上 勲先生
第七回 町田 龍一郎先生
第六回 大木 理恵子先生
第五回 林 純一先生
第四回 和田 洋先生
第三回 白岩 善博先生
第二回 漆原 秀子先生
第一回 佐藤 忍先生